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Sightseeing spot of France
  • La tour Eiffel
  • La tour Eiffel

  • フランス革命100周年を記念して、1889年にパリで行われた第4回万国博覧会のために建造されるべくコンペティションが開かれた。1886年6月3日、コンペティション最優秀作品として委員会が選んだのは3案あり、フェルディナン・デュテルとジャン・カミーユ・ルミジュの作品(美術館など)と、エッフェル、ソーヴエストル、ケクランらの設計図であった。満場一致の採択であり、講評は「1889年の万国博覧会用に建てられる塔は決定的な特徴をもち、金属産業の独創的傑作として出現しなければならない。この目的に十分かなうのはエッフェル塔のみと思われる」であった。こうしてエッフェル塔建設が始まる。建設当時の高さは312.3m(旗部を含む)で、クライスラービルが完成するまでは世界一高い建造物であった。現在は放送用アンテナが設置されたため、324mとなっている。展望台は3つあり、高さは57.6m、115.7m、276.1mである。第2展望台までは階段でも昇ることが可能。水圧エレベーターなど、当時の基本構造は今でも現役で稼動している。鋼製ではなく錬鉄製の塔である。塔の支点の下には水平に保つためのジャッキがある。万博後には来訪者も減ったことや、当初の契約から1909年には解体されようとしていたが、のちに軍事用の無線電波をエッフェル塔から送信することになり、そのため国防上重要な建築物ということで、現在に至るまで残っている。現在ではパリを代表するシンボルとなっている。1991年この塔を含むパリのセーヌ川周辺は世界遺産として登録された。
  • Arc de triomphe de l'Etoile
  • Arc de triomphe de l'Etoile

  • パリの象徴的な建造物の一つ。この凱旋門を中心に、シャンゼリゼ通りを始め、12本の通りが放射状に延びており、その形が地図上で光り輝く「星=étoile」のように見えるので、この広場は「星の広場(la place de l'Etoile)」と呼ばれていた。なお、「凱旋門 Arc de triomphe (アルク・ド・トリヨーンフ)」の直訳が「戦勝のアーチ」であることでも分かるように、「凱旋門」自体は戦勝記念碑である。古代ギリシャ、ローマを模範とする新古典主義建築の代表作である。シャンゼリゼ通りとこのエトワール凱旋門の延長線上のラ・デファンスには「新凱旋門 グランダルシュ」 (la Grande Arche、またはl'Arche de la Défense) があるが、これは戦勝記念碑ではないので、正式名称に "triomphe" が付いていない。すなわち「凱旋門」ではない。しかし、シャンゼリゼ通りの都市軸上にある、カルーゼル凱旋門・エトワール凱旋門に続く第3番目の「門(arc, arche)」であるとの認識があるため、フランスの国の標語である「Liberté, Égalité, Fraternité」(自由、平等、友愛)から、「La Grande Arche de la Fraternité」(直訳 - 友愛の大アーチ)との正式名称を持つ。
  • エトワール凱旋門は、前年のアウステルリッツの戦いに勝利した記念に1806年、ナポレオン・ボナパルトの命によって建設が始まった。ルイ・フィリップの復古王政時代、1836年に完成した。エトワール凱旋門の下には、第一次世界大戦の無名戦士の墓がある。第二次世界大戦ではナチス・ドイツのパリ占領に際してナチス・ドイツ国旗が掲げられ、ヒトラーが戦車で凱旋した。
  • Musée du Louvre
  • Musée du Louvre

  • メトロポリタン美術館(アメリカ合衆国ニューヨーク)などと並んで世界最大級の美術館の1つであるとともにヨーロッパで最も古い美術館の1つに数えられる。世界遺産パリのセーヌ河岸に包括登録されている。世界的に有名な絵画・彫刻を多数所蔵している。ルーヴル美術館は、パリの中心部、セーヌ川の右岸に位置し、ルーヴル宮殿の大部分を占めている。
  • 展示室
  • 展示館は、東端のクール・カレ(方形中庭、Cour Carrée)を囲むシュリー翼 (Aile Sully)、その南西からセーヌ川沿いに西へと伸びるドゥノン翼 (Aile Denon)、シュリー翼の北西からリヴォリ通りに沿って西へと伸びるリシュリュー翼 (Aile Richelieu) に分けられる。各建物は半地下 (entresol)、1階 (rez-de-chaussée)、2階 (1er étage)、3階 (2e étage) の4層に分かれる。なお、日本語とフランス語では階数の数え方が異なり、日本語の「1階」「2階」「3階」をフランス語ではそれぞれ「地階」「1階」「2階」と表現する(以下の説明文中の「1階」「2階」等は日本語式の「1階」「2階」を指す)。美術館への入口は、セーヌ川沿いのライオン門入口 (Entrée Porte de Lions)、地下ショッピング街に直結したカルーゼル入口 (Entrée Galerie du Carrousel) もあるが、メインの入口は、中庭のガラスのピラミッドの入口 (Pyramide entrée principale) である。ガラスのピラミッド下のナポレオン広場には、各言語版の館内案内図が常備されたインフォメーション・カウンターや入場券売場があり、ここからシュリー、ドゥノン、リシュリューの各翼や、レストラン、カフェテリア、ミュージアム・ショップへと向かうことができる。シュリー翼の位置は、中世にルーヴル城が建設されたところで、地下には中世の要塞の遺構が保存され、1・2階にはエジプト、古代ギリシア、古代オリエントの美術、3階にはフランス絵画が展示されている。ドゥノン翼は、長大なグランド・ギャルリ(大ギャラリー)を含む建物で、半地下と1階にはギリシア、エトルリア、ローマ美術と中世ヨーロッパの彫刻を展示し、2階の大ギャラリーはイタリア絵画を中心とする絵画の展示場となっている。 リシュリュー翼は、1981年以降の大ルーヴル計画によって拡充された部分で、フランス彫刻、工芸品、北方絵画(ドイツ、フランドル、オランダなど)の展示場にあてられている。2階の工芸品展示室では、ナポレオン3世の居室の室内装飾も展示の一環となっている。
  • 【収蔵品/古代オリエント部門】
  • この部門は、キリスト教発祥の地であり、西洋文明の故郷でもある中近東、具体的にはレバント、メソポタミア、イランなどの地域の古典美術を対象とし、シュメール文明、アッカド帝国、バビロニア王国、アッシリア帝国、アケメネス朝ペルシャなど、西暦紀元以前数千年にわたりこの地に栄えた諸文明の遺産がみられる。
  • 【収蔵品/古代エジプト部門】
  • 1826年にはエジプト部門が設けられ、カイロ博物館やメトロポリタン美術館と並ぶ、世界最大級のエジプト美術のコレクションを誇る。シュリー翼半地下の「中世のルーヴル」の展示室から南側の階段を上がると、第1室で、大スフィンクス像が鑑賞者を迎える。シュリー翼1階は神殿、葬送美術、生活文化などのテーマ別展示、同2階は時代別展示となっている。22室の『書記座像』などが名高い。
  • 【収蔵品/古代ギリシア・エトルリア・ローマ部門】
  • 新石器時代から、6世紀のローマ帝国末期までの美術品が豊富に収蔵されている。作品は石造彫刻が主となるが、他に、陶器、ブロンズ製品なども豊富に有する。古代ギリシアの絵画作品は地上からほとんど失われているが、豊富に現存する陶器の上絵によって、その片鱗が窺える。ヘレニズム期に属する『ミロのヴィーナス』『サモトラケのニケ』はいずれもルーヴルを代表する著名作品である。
  • 【収蔵品/イスラム美術部門】
  • 世界でも有数のイスラム美術のコレクションを有する。この部門はかつては古代オリエント部門に包含されていたが、2004年に独立の部門となった。ウマイヤ朝、アッバース朝、ファーティマ朝、セルジューク朝、マムルーク朝、ムガル帝国など、時代的には7世紀から19世紀、スペインからインドに至る広大な地域に興亡したイスラム王朝が生んだ陶器、ガラス器、金属工芸、象牙細工などの遺産が展示されている。
  • 【収蔵品/絵画部門(フランス)】
  • ポレオンの時代、イタリア遠征等によって国外からもたらされた大量の美術品は、ナポレオンの失脚、王制復古とともに1815年にはその大部分が元の国へ返還されたが、19世紀以降もルーヴルの絵画コレクションは増大を続け、自国フランスのみならず、イタリア絵画、北方絵画にも名品が多く、これらの外国絵画にも多くの展示スペースがさかれている。『ジャン2世善良王の肖像』『ナポレオンの戴冠式』ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』『サルダナパロスの死』ジェリコーの『メデューズ号の筏』などの大作が展示されている。
  • 【収蔵品/絵画部門(イタリア)】
  • 展示はボッティチェッリのフレスコ画から始まり、セーヌ川沿いに延びるグランド・ギャルリを経て、『モナ・リザ』、同じ部屋には巨大な『カナの婚礼』(ヴェロネーゼ)が掛けられている。ルーヴルの数ある絵画作品の中でも『モナ・リザ』だけは別格扱いで、絵の傍らには常に館職員が見張りに立っており、鑑賞者は一定の距離以上は絵に近づけないようになっている。
  • 【収蔵品/絵画部門(北方)】
  • 初期ネーデルラント、オランダ、フランドル、ドイツなどのいわゆる北方絵画、オランダ・フランドル絵画の黄金時代であった17世紀までの作品が中心となっている。18から19世紀の作品およびスイス、スカンディナヴィア、ロシアなどの絵画が展示されている。ルーベンスの『マリー・ド・メディシスの生涯』の連作も展示されている。
  • 【収蔵品/彫刻部門】
  • 古代オリエント、古代エジプト、古代ギリシア・エトルリア・ローマの彫刻作品が展示されている。ルーヴルの「彫刻」部門の収蔵品は、フランスを中心とするヨーロッパの彫刻作品である。1871年、プティ=ゾーギュスタン修道院にあったフランス国立記念物博物館が閉鎖され、同館のコレクションがルーヴルに移管された。その後、1892年に工芸部門から彫刻部門が独立し、今日に至っている。
  • 【収蔵品/工芸部門】
  • 時代的にはローマ帝国時代から19世紀まで、内容的には「彫刻」に分類されているもの以外の小彫像、象牙細工、エマイユ、メダル、陶器、タペストリー、宝飾品、家具などがここに含まれる。コレクションにはフランス国王の宝物室にあった品や、サン=ドニ王立修道院に収められていた、「レガリア」と称するフランス国王戴冠式の用具なども含まれる。
  • Notre-Dame
  • Notre-Dame

  • 「パリのセーヌ河岸」という名称で、周辺の文化遺産とともに1991年にユネスコの世界遺産に登録された。現在もノートルダム大聖堂は、パリ大司教座聖堂として使用されている。ノートルダムとはフランス語で「我らが貴婦人」すなわち聖母マリアを指す。
  • ノートルダムの敷地は、ローマ時代にはユピテル神域であったが、ローマ崩壊後、キリスト教徒はこの地にバシリカを建設した。1163年、司教モーリス・ド・シュリーによって、現在にみられる建築物が着工され、1225年に完成した。ファサードを構成する双塔は1250年に至るまで工事が続けられ、ヴォールトを支えるフライング・バットレスは12世紀に現様式に取り替えられた。最終的な竣工は1345年。ファサードを装飾する彫刻、屋根の塔、その他多くの部分は、19世紀のゴシック・リヴァイヴァル期にウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクによって大幅に改装されたものである。
  • Sainte chapelle
  • Sainte chapelle

  • フランスのパリ中心部、シテ島にあるゴシック建築の教会堂。 おそらくゴシック建築が最も輝かしい時期の頂点ともいえる傑作である。1241年に計画され、早くも1248年の4月26日には献堂された。サント・シャペルにはそれにふさわしい聖遺物、キリストのかぶった荊冠が納められた。 多くの貴族のように遺物を盗み出すことはせず、聖ルイはキリスト受難の貴重な聖遺物をコンスタンティノープルのラテン帝国皇帝ボルドワン2世から135,000リーブルの大金を支払って購入した。 これに対してサント・シャペル全体を建築するためにかけられた金額は40,000リーブルだった。 聖十字架のかけら等の聖遺物も加えられた。 このようにサント・シャペルの建物は、貴重な聖遺物入れとなった。教会で視覚的に最も美しく、このタイプでは世界でもベストだと考えられているのが、サント・シャペルのステンドグラスである。その石細工は繊細な構成で、バラ窓は15世紀に上のチャペルに加えられた。直接建設に携わった設計士や建築家の名は、ピエール・ド・モントルイユ。フランス革命期、サント・シャペルは行政の事務所として使われ、窓は巨大な整理棚で隠されていた。その美しさはほとんど忘れ去られていたため、たまたま破壊から免れたが、クワイヤの聖歌隊席や内陣障壁は破壊され、尖塔は引き下ろされ、遺物は散逸してしまった。サント・シャペルは1862年に国立歴史記念館となった。
  • Musée d'Orsay
  • Musée d'Orsay

  • オルセー美術館の建物はもともと1900年のパリ万国博覧会開催に合わせて、オルレアン鉄道によって建設されたオルセー駅の鉄道駅舎兼ホテルであった。設計者はヴィクトール・ラルー。美術館の中央ホールは地下ホームの吹き抜け構造をそのまま活用している。建物内部には鉄道駅であった面影が随所に残る。現在ではパリの観光名所としてすっかり定着した感がある。なお、旧印象派美術館(ジュ・ド・ポーム)の収蔵品はすべてオルセーに引き継がれている。館の方針としては、原則として2月革命のあった1848年から、第一次世界大戦が勃発した1914年までの作品を展示することになっており、それ以前の作品はルーヴル美術館、以降の作品はポンピドゥー・センターという役割分担がなされている(むろん、多少の例外はある)。絵画、彫刻だけでなく、写真、グラフィック・アート、家具、工芸品など19世紀の幅広い視覚芸術作品も収集・展示の対象になっている。オルセーでは、印象派やポスト印象派など19世紀末パリの前衛芸術のコレクションが世界的に有名だが、19世紀の主流派美術で後に忘却されたアカデミズム絵画(アール・ポンピエ)を多数収蔵・展覧。
  • Les Invalides
  • Les Invalides

  • 旧・軍病院。1671年にルイ14世が傷病兵を看護する施設として計画し、リベラル・ブリュアンが設計の指揮をとり1674年に最初の傷病兵たちが入った。建築史上有名なのは附属する礼拝堂の建築である。教会の建設は1677年に始まり、後に兵士の教会とドーム教会に分かれジュール・アルドゥアン=マンサールのもとで1706年に完成した。ドーム教会の地下墓所にはナポレオン・ボナパルト(フランス皇帝ナポレオン1世)の柩が中央に置かれている。また、それを囲むようにして、ナポレオンの親族やフランスの著名な将軍の廟が置かれている。21世紀当初となっても100人ほどの戦傷病兵や傷痍軍人が暮らしている。一部は軍事博物館として公開されている。
  • Seine
  • Seine

  • フランスを流れる河川である。流域も全体がフランスに属している。全長780kmは、フランスではロワール川に続いて第二の長さ。ディジョンの北西30kmの海抜471mの地点に源を発し北西に向かい、パリを流れ、ル・アーヴルとオンフルールの間のセーヌ湾に注ぐ。中下流部は大きく蛇行した流れが特徴で、パリを抜けるあたりから何度も繰り返す。ジヴェルニー、ヴェルノンの付近は、しばらく治まるが、ルーアンの近辺でふたたび蛇行が始まる。河口付近の川幅は大きく広がっており、湾と言っても差し支えないほどである。ル・アーヴルとオンフルールの間に、1995年にノルマンディー橋が完成するまでは、両市の陸上交通は、さらに20kmほど上流のタンカルヴィル橋までさかのぼらなければならなかった。
  • Place du Tertre
  • Place du Tertre

  • パリ18区のモンマルトルの丘にある広場。画家達が集まり観光客の似顔絵を描いている。和訳すると「画家広場」であり、かつてはパブロ・ピカソやモーリス・ユトリロらもここで絵を描いていたと言われる。パリ市街が一望できる。
  • Mont Saint-Michel
  • Mont Saint-Michel

  • カトリックの巡礼地のひとつであり「西洋の驚異」と称され、1979年「モンサンミシェルとその湾」としてユネスコの世界遺産に登録され、1994年10月にはラムサール条約登録地となった。
  • ノルマンディー地方南部・ブルターニュとの境に近いサン・マロ湾はヨーロッパでも潮の干満の差が最も激しい所として知られる。潮の満ち引きの差は15メートル以上ある。このため、湾の南東部に位置する修道院が築かれた岩でできた小島はかつては満ち潮の時には海に浮かび、引き潮の時には自然に現れる陸橋で陸と繋がっていた。1877年に対岸との間に地続きの道路が作られ、潮の干満に関係なく島へと渡れるようになった。しかし、これによって潮流をせき止めることとなり、100年間で2mもの砂が堆積してしまった。急速な陸地化が島の周囲で進行しており、島の間際まで潮がくることは滅多になくなりつつある。世界遺産の厳島神社がある広島県廿日市市とは姉妹都市である。
  • 主要部はゴシック様式だが、内部はさまざまな中世の建築方式が混ざり合って構成されている。教会堂はカロリング期の様式で、身廊はノルマン様式(11~12世紀)、百年戦争後の1421年に破壊されたロマネスク様式の内陣はフランボワイアン・ゴシック様式(15世紀半ば~16世紀初頭)。ゴシック・リヴァイヴァル建築の鐘楼と尖塔は1897年に完成。その上に奉られた剣と秤を持つ金のミカエル像は彫刻家エマニュエル・フレミエによって製作された。
  • 966年にはノルマンディー公リシャール1世がベネディクト会の修道院を島に建て、これが増改築を重ねて13世紀にはほぼ現在のような形になったものである。中世以来、カトリックの聖地として多くの巡礼者を集めてきた。1900年当時の満潮時の様子百年戦争の期間は島全体が英仏海峡に浮かぶ要塞の役目をしていた。モン・サン=ミシェルの入り口には今もイギリス軍が捨てていった大砲とその弾が残っている。 陸地化が進んだ様子(2004年当時)18世紀末のフランス革命時に修道院は廃止され1863年まで国の監獄として使用され、その後荒廃していたが、ヴィクトル・ユゴーの紹介がナポレオン3世を動かし、1865年に再び修道院として復元され、ミサが行われるようになった。
  • 英名:Mont-Saint-Michel and its Bay
  • 仏名:Mont-Saint-Michel et sa baie
  • 登録区分:文化遺産
  • 登録年:1979年
  • Cathédrale de Chartres
  • Cathédrale de Chartres

  • フランスの首都パリからおよそ南西80kmほど離れた都市シャルトルに位置し、フランス国内において最も美しいゴシック建築のひとつと考えられている大聖堂。1979年にユネスコの世界遺産に登録されている。大聖堂はカトリック教会の教会州、シャルトル教区を置く。
  • ロマネスク様式を基礎とする新しい大聖堂の建築が始まったのは1145年であったが、1194年の大火事で町全体と聖堂の西側前方部分以外が焼き尽くされたため、この残った部分のみ初期ゴシック様式となった。大聖堂本体の再建は1194年から1220年の間に行われ、中世の大聖堂としては著しく短期間で完成へと至った。大聖堂の建築は最上級のもので、その高く聳え立つ通路やきめ細かい彫刻を見て熱情に溢れない建築歴史家は殆どいないほどである。フランスにおける全てのゴシック建築の大聖堂で最も素晴らしいものの中の一つだから、上記の賛辞は十分値するものである。876年以来大聖堂は、伝承では聖母マリアのものとされる「サンクタ・カミシア(Sancta Camisia、聖衣)」というチュニックを所蔵している。これは十字軍のイスラエル遠征の間、カール大帝により大聖堂への贈物としてえられた聖遺物と考えられている。12世紀ごろ、教会は本来巡礼者のための教会であった。聖堂の周囲で行われた縁日には多くの巡礼者が参列しており、それは聖母マリアの祝祭日と同時に開かれるためだった。縁日が行われるのは聖堂のちょうど外側で、聖堂にすぐ近く教会の管轄下にあった街道や広場に連なって設けられた。縁日の中には「潔めの祝日」、「受胎告知の祭日」、「聖母被昇天祭」、「聖母マリア誕生祭」の4つの大きな聖母マリアの祭日があった。シャルトル大聖堂はシャルトルの街で最も重要な建造物であった。かつて聖堂は経済の中心であり最も著名なランドマークであって、今日も市営の建物で提供されるあらゆる活動の中心的な役割を果たしている。現存するシャルトル大聖堂にはフランスゴシック調の傑作品が築かれているが、これは火事で以前からあった彫刻品群が焼失したためである。1020年に大聖堂の重要な財産が焼失した後(これに先立ち、他の教会部分も煙で消滅している)、巨大な地下聖堂を含む素晴らしいロマネスク様式のバシリカがフュルベール司教(Bishop Fulbert)、次いでジョフロワ・ド・レーヴ(Geoffroy de Lèves)の指揮のもとに建設された。しかし、町全体を焼き尽くした1134年の大火事で残存した後も、1194年6月10日から11日未明に照明が引き起こした炎がまたもや聖堂を襲い、西側の塔とそれと地下聖堂の間にあるファサードを残すのみとなってしまった。その後の再建にはフランス中から寄付が集まり、大聖堂の調和のとれた外観を保存するため、名前不詳の建築家によって提案された設計図を用いてほぼすぐに始められた。、1220年頃には主だった建物の組み立ては完了して、古い地下聖堂と同じく火事を生き延びた12世紀中頃の威厳ある正門が、新設された建物に組み入れられた。1260年10月24日、大聖堂はついにルイ9世王家の手に渡った。内観は外貌の気品からさえも予期できないほど驚異的なものである。だだっ広い身廊は36m の高さを誇り、西端からは東側にあるアプスの荘厳なドームが完全に眺められる。劇的に聳える円柱群は平坦な土台から天井のアーチの方向まで向かい、人々の目をアプスの壮大なクリアストリーへ導く。シャルトル大聖堂はフランス革命期で破壊または略奪に遭ったことがなく、数多く行われてきた修復もその華麗な美しさを作り変えてしまうことはなかった。大聖堂はいつの時代も不変のままであり、ゴシック芸術の勝利とも言えよう。1979年、大聖堂はユネスコの世界文化遺産に登録された。
  • また中世では大聖堂が重要な聖堂学校としても機能していた。カール大帝が9世紀にフランス市民のために教育のシステム導入を求めたが、学校を新設するのが困難で経費もかかった為、既に存在していた設備を利用した方が簡単だったのである。そのため大帝は大聖堂と修道院双方に学校の整備を命じた。この聖堂学校は教育の中心となる場所として結果的に修道院学校へと受け継がれた。このシャルトル大聖堂が教授した新しい論理学は、パリよりもかなり進んでいると多くの人々から評価された。シャルトル大聖堂で教育を受けた人物の一人にはイギリスの哲学者並びに作家であるソールズベリのジョン(John of Salisbury)がおり、後にシャルトル大聖堂の司教となった。
  • 英名:Chartres Cathedral
  • 仏名:Cathédrale de Chartres
  • 登録区分:文化遺産
  • 登録年:1979年
  • Château de Versailles
  • Château de Versailles

  • ヴェルサイユ宮殿は、ルイ14世が建造した宮殿である。そのため、フランス絶対王政の象徴的建造物ともいわれる。パリの南西22キロに位置する、イヴリーヌ県ヴェルサイユにある。主な部分の設計はマンサールとル・ブランによっておこなわれ、庭園はアンドレ・ル・ノートルによって造営された。バロック建築の代表作で、豪華な建物と広大な美しい庭園で有名である。
  • 宮殿よりも噴水庭園のほうが建設にかかった労力は上で、宮殿建設の25,000人に対し、36,000人が投入されている。噴水にはルイ14世の三つの意図が込められている。
  • 「水なき地に水を引く」
  • ルイ14世は10km離れたセーヌ川の川岸に巨大な機械を設置し、堤の上に水を上げさせた。そして古代ローマに倣って水道橋を作って、水をヴェルサイユまで運び、巨大な貯水槽に溜め込んだ。こうして水なき地で常に水を噴き上げる噴水庭園を完成させた
  • 「貴族を従わせる」
  • ルイ14世は10歳の時にフロンドの乱で、貴族たちに命を脅かされたことがある。ルイ14世はこの体験を一生忘れず、彼は貴族をヴェルサイユに強制移住させた。
  • 「民衆の心をつかむ」
  • ルイ14世は民衆の誰もがヴェルサイユに入るのを許し、民衆に庭園の見方を教える「王の庭園鑑賞法」というガイドブックを発行した。民衆は、ガイドブックに従って庭園を鑑賞することで、貴族と自然を圧倒した王の偉大さを刷り込まれていった。
  • 構造
  • 儀式や外国の賓客を謁見するために使われた鏡の間は、1871年にドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の即位式が行われ、また第一次世界大戦後の対ドイツとの講和条約であるヴェルサイユ条約が調印された場所でもある。鏡の間にはたくさんの銀製品が飾られていたというが、ルイ14世は晩年になって、スペインとの王位継承争いが続いて戦費の捻出に困り、破産を免れるためにこれらを売って戦費に充てたという。
  • 英名:Palace and Park of Versailles
  • 仏名:Palais et parc de Versailles
  • 登録区分:文化遺産
  • 登録年:1979年
  • Basilique Sainte-Madelaine
  • Basilique Sainte-Madelaine

  • フランスの町ヴェズレーの中心的な丘の上にあるバシリカ式教会堂。この教会と丘は、1979年にユネスコの世界遺産に登録された(登録名は「ヴェズレーの教会と丘」)。サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の始点のひとつという歴史的重要性もさることながら、大聖堂のティンパヌムはロマネスク彫刻の傑作として知られている。
  • 861年にヴェズレーの丘の上にベネディクト会士たちが建立した。878年には、この初期カロリング様式の教会は、ローマ教皇ヨハネス8世によって、現存する地下納骨堂ともどもマグダラのマリアに捧げられた。アルトー修道院長 (l'abbé Artaud) は、1096年から1104年に内陣も翼廊も新築した。ただし、この新築にかかる費用の負担に反発した住民たちが暴動を起こし(1106年)、この時にアルトーは殺された。なお、この時点では身廊はカロリング様式のままだったが、1120年7月25日に1127人の犠牲者を出した大火災に見舞われたことで、身廊も建て直された(1138年に完成)。なお、今に残る正面扉上の美しいティンパヌムが彫られたのもこの頃のこと。1146年の復活祭の日(3月31日)に、クレルヴォーのベルナルドゥスは、丘の北斜面にて第二次十字軍を派遣すべきであると説いた。また、1166年にはカンタベリー大司教トマス・ベケットが、この教会で、イングランド王ヘンリー2世の破門を宣告した。1162年にはクリュニー修道院から分離し、オータン司教からフランス王の監督下に移っていたが、1217年にはフランシスコ会に引き取られ、1537年に還俗した。1819年にはサン=ミシェル塔に落雷があった。度重なる損壊に対し、プロスペル・メリメの発案に従って、ウジェーヌ・ヴィオレ=ル=デュックに再建が委ねられた(1840年)。この再建工事は1876年に完成し、1912年に再び巡礼の拠点となった。
  • 英名:Vézelay, Church and Hill
  • 仏名:Basilique et colline de Vézelay
  • 登録区分:文化遺産
  • 登録年:1979年
  • Pont du Gard
  • Pont du Gard

  • フランス南部・ガール県のガルドン川に架かる水道橋である。ユゼスからニームへ水を運ぶための水路の途中にあり、古代ローマ時代・紀元前19年頃にアウグストゥス帝の腹心アグリッパの命令で架けられたと考えられている。ニームへの導水路は全長約50㎞ 平均斜度は1㎞あたり34㎝でポン・デュ・ガール上流でもっとも大きくなっている。3層のアーケードは上に行くほど幅が狭くなっている。全体の高さはガルドン川の最低水位から49m 下層は6つのアーチ、長さ142m、幅6m、高さ22m 中層は11のアーチ、長さ242m、幅4m、高さ20m 上層(導水路がある)は35のアーチ、長さ275m、幅3m、高さ7m。
  • 19世紀にナポレオン3世の命令で改修されているこの驚異的な光景をうたいあげた作家・芸術家・考古学者は数知れない。18世紀の思想家J.J.ルソーはこの巨大な橋を前にしたときの驚きを「この3層からなる素晴らしい建造物の上を歩き回ったが、敬意からほとんど足を踏めないほどであった。自分をまったく卑小なものと思いながらも、何か魂を高揚させてくれるものを感じて、なぜローマ人に生まれなかったのかとつぶやいていたのだった」と語っている。
  • 英名:Pont du Gard (Roman Aqueduct)
  • 仏名:Pont du Gard
  • 登録区分:文化遺産
  • 登録年:1985年