

the Palace of Westminster
- 英国ロンドンの中心部テムズ川河畔に存在する宮殿。現在英国議会が議事堂として使用している。併設されている時計塔(ビッグ・ベン)と共にロンドンを代表する景色として挙げられる。所在地はロンドンのミルバンク。なお近隣のテムズハウスがイギリス情報局保安部である。
- ウェストミンスター宮殿のおかれているテムズ川河畔は中世を通して戦略上の要衝であった。すくなくともアングロ・サクソンの時代には既にこの地に何らかの建物が建設されていた。ソーニー・アイランドとして知られるイングランド中世にはカヌート王によって初めて宮殿として用いられるようになり、サクソン王朝の最後から2代前の王エドワード懺悔王はシティ・オブ・ロンドンの西、ソーニー・アイランドに宮殿とウェストミンスター寺院を建設した。時代が下るとこの周辺の地区はウェストミンスター(Westminster) と呼称されるようになった。これは西方の修道院 (West Monastery) の省略形であると考えられている。1066年のノルマン・コンクエスト時にはウィリアム1世は一時ロンドン塔を自身の住居として定めたが、後にウェストミンスターへと移っている。これらサクソンやウィリアム1世により使用された建築物は現在残っていない。宮殿における最古の部分は次代のウィリアム2世により建造されたものである。
- 中世後期をとおしてウェストミンスター宮殿は王の住居であり続けた。イングランド政府が成立すると、公共施設の多くはウェストミンスター周辺に建設されている。議会の前身であるキュリア・レジス(Curia Regis, 枢密院)はウェストミンスター・ホールに設けられた。1295年に設立された初めてのイングランド議会である模範議会も宮殿内で開催されている。このようにほぼ全ての議会は王の居住する宮殿内で開催されたが、何らかの理由により他の場所に設けられたことが数例ある。
- 1529年の大火が発生するまでウェストミンスターは王の宮殿として機能していた。1530年にヘンリー8世はヨーク宮殿をトマス・ウルジー枢機卿から手に入れ、ホワイトホール宮殿と改名して自身の宮殿として使用した。公にはウェストミンスター宮殿が住居であったが、実際には二つの議会および裁判所として利用されていた。本来宮殿であったウエストミンスター宮殿には議会としての利用に適した部屋が存在しなかった。議会の開会式など重要な国事行事はPainted Chamberで執り行われた。貴族院はホワイト・チャンバーで、庶民院については固定した開催場所が存在せず、時にはウェストミンスター寺院のチャプター・ハウスで開催されている。その後宮殿内の聖ステファン教会が議場とされたがこれはエドワード6世統治下のみに終わった。
- 1836年に委員会は97の計画案の中からチャールズ・バリーの設計したゴシック様式のデザインを採用した。1840年に礎石が据えられ、貴族院議事堂は1847年に、庶民院議事堂は1852年に完成した。その後建物の主要部分は1860年に完成した。 ウェストミンスター宮殿は1941年まで利用され続けていたが、この年にドイツ軍の爆撃によって庶民院が破壊された。ジャイルズ・ギルバート・スコットの設計によって元のサー・チャールズ・バリーの設計を残して1950年に完成した。

Westminster Abbey
- イギリスのロンドンウエストミンスターにあるイギリス国教会の教会。聖ペテロ修道教会。戴冠式などの王室行事が執り行われ、内部の壁と床には歴代の王や女王、政治家などが多数埋葬されている。墓地としては既に満杯状態で、新たに埋葬するスペースはもはやなくなっている。国会議事堂(ウェストミンスター宮殿)が隣接している。
- イギリス中世の大規模なゴシック建築である。11世紀にエドワード懺悔王が建設し、1066年以降、英国国王の戴冠式が行われている。1245年、ヘンリー3世が再建を決め、フランスの建築家を招き、フランスのゴシック建築にならって現在の寺院を建て始めた。14世紀末までにおおよそ完成するが、正面部分は16世紀初め、塔は17世紀、と長期間にわたって建設されている。多くの学校や職場で使用されている始業、終業のチャイムの音階は、同寺院のために1927年に作曲された「ウェストミンスターの鐘」が元となっている。
- 1987年、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録。

Old Town of Edinburgh
- スコットランドの首都エディンバラの一部。UNESCO世界遺産に登録されている。中世の都市図とスコットランド宗教改革時代の建物が多く残る。一端はエディンバラ城と主要な幹線であるロイヤル・マイル、実際には4つに区別される通りであるキャッスルヒル、ローンマーケット、ハイ・ストリート、そして現在廃墟となっているホリールード寺院へつながるカノンゲイトによってふさがれる。狭いクローゼス(closes、小路)はしばしば数フィートの幅しかなく、ヘリンボーン模様(矢はず模様とも)の主な背骨のどちらの側にも下り坂へつながる。セント・ジャイルズ大聖堂やスコットランド最高裁判所のような主要な公共建築物または市場のある場所は、大きな広場のそばである。
- スコットランド議会ビル、ホリールード宮殿、スコットランド教会ゼネラル・アッセンブリー・ホール、スコットランド・ロイヤル・ミュージアム、サージェオンズ・ホール、エディンバラ大学といった有名なものが旧市街にあり、おびただしい数の地下道と地下室、以前の建設過程の遺物などがある。通りの配置は北ヨーロッパ諸都市の旧地区の典型であり、エディンバラには岩山の上にそびえる城、死火山の名残などがあるため非常に絵画的であり、主な通りが山のうねの上から下ってゆく。
- 都市の地形『クラグ・アンド・テイル』(Crag and tail、平地にそびえる岩山や丘と漸減する斜面のこと)は後期氷河期につくられ、大地との間の氷河が刻んだ痕跡がおぼろげになり柔らかな土壌を押し出したときに誕生した。しかし、火山性岩の堅い貝砂層によって裂かれた。丘の上の険しい岩は都市の最初に発展した部分で、要塞化されすぐに現在のエディンバラ城となった。 都市のその他の残りは、城のある岩山から平地へとゆっくりと広がっていった。これは南部の湿地帯と北方のノール湖を伴う容易に防御可能な地となった。主な道から居住区へアクセスするのはたくさんの門と市壁を通らなければならないことで制限が加えられていた。市壁は唯一断片的に残る場所がある( フロドゥン壁など)。
- 2002年12月7日、旧市街で起きた火事にカウゲイトの一部が飲み込まれた。有名なコメディー・クラブ『ザ・ギルデッド・バルーン』や、包括的な人工知能図書館を含むエディンバラ大学情報科学学部の大半が破壊された。

Royal Botanic Gardens, Kew
- イギリスの首都ロンドン南西部のキューにある王立植物園。1759年に宮殿併設の庭園として始まり、今では世界で最も有名な植物園として膨大な資料を有している。2003年にユネスコ世界遺産に登録された。
- 植物園はロンドンの中心部から南西に位置するリッチモンド・アポン・テムズとキューの中間に設けられている。現在の園長はサー・ピーター・クレーン。過去には、サー・ジョゼフ・バンクスやサー・ジョセフ・ダルトン・フッカーなどが園長を務めた。
- キュー・ガーデンズの歴史はテュークスベリーのケープル卿が熱帯植物を集めた庭を作ったことに始まる。その後この庭はジョージ2世の長男フレデリック皇太子の未亡人であるオーガスタ妃によって拡張され、ウィリアム・チェンバーズの設計による建築物が何棟か建てられた。そのうちの1つである1761年建造の中国のパゴダは今日も残されている。ジョージ3世はウィリアム・エイトンやサー・ジョゼフ・バンクスに命じてさらに庭園の植物を豊かなものにさせた。旧キュー・パークは1802年に廃止され、1781年にジョージ3世は隣接するダッチ・ハウスを買い上げて皇室の子供達を育てる施設とした。この建物は現在キュー宮殿として残されている。1840年に庭園は国立の植物園と改組された。ウィリアム・ジャクソン・フッカーの指揮のもとで植物園は30ヘクタールにまで拡張され、さらに後の改修で現在の120ヘクタールの敷地が完成した。
- 往時のキュー王立植物園は、世界各地から資源植物(人間生活に必要なものを作ることができるとされた植物)を集め、品種改良などをおこなう場でもあった。イギリス植民地内の各植物園と情報交換などをおこない、それにより、育成条件の合致する植民地に移植してプランテーションでの大量生産を図った。

Greenwich
- グリニッジは大ロンドン南東部の町で、グリニッジ・ロンドン特別区のテムズ川南岸に位置している。グリニッジ標準時の基準となる都市として、また「マリタイム・グリニッジ」(海事都市グリニッジ、河港都市グリニッジ)の名でユネスコの世界遺産に登録されている由緒ある港町として、よく知られている。
- 水運と密接に結びついてきたグリニッジの歴史的建造物群は、世界遺産に登録されている。グリニッジ天文台がある都市としてよく知られており、この天文台をグリニッジ子午線が通っている。かつて、協定世界時に置き換えられるまでは、グリニッジ天文台での時間計測に基礎を置いたグリニッジ標準時が用いられていた。グリニッジはもはや実用的な天体観測を主導する場ではないが、いまなお報時球は正確に午後1時を知らせ、町にはジョン・ハリソンの海事クロノメーターをはじめとする天文学や航海術に関する道具を集めた博物館もある。天文台は、プラセンティア宮殿の敷地を利用したグリニッジ公園内にある。公園にはイニゴー・ジョーンズ作のクイーンズ・ハウスを含む国立海事博物館 (National Maritime Museum) があり、全ての建築物は自由に訪れることが出来る。
- 旧王立海軍大学 (The Old Royal Naval College) は、クリストファー・レンの手がけた丸天井付きの傑作で、世界遺産登録地の中央に位置している。ここはグリニッジ財団 (the Greenwich Foundation) が管理しており、毎日訪問者に無料で開放されている。旧大学内のいくつかの建造物はグリニッジ大学に貸されているが、the King Charles blockは、Trinity College of Musicに貸されている。また、ジェイムズ・ソーンヒル (James Thornhill) が塗装したペインティド・ホール (Painted Hall) やセント・ピーター、セント・ポール両礼拝堂(後者の内装はJames Athenian Stuartが手がけた)も、毎日グリニッジ・ヴィジター・センターからガイド付きツアーが出発している通り、一般に開放されている。
- クリッパーの「カティーサーク」は川沿いの乾ドックで保存展示されている。2006年から帆船の大規模な保存プロジェクトが始動し、2008年9月に終了する予定であった。しかし2007年5月21日に火災事故が発生、現在復元の見通しは立っていない。そのそばには、長い間、フランシス・チチェスター (Sir Francis Chichester) が226日間世界一周(1966年 - 1967年)を行ったケッチである「ジプシー・モス4世号」(Gipsy Moth IV) も展示されていたが、第二の航海歴を積み重ねるための大規模な修繕のために2004年に移送された。カティーサークのそばには、テムズ川の北側のアイル・オブ・ドッグズ (Isle of Dogs) へ行くための歩行者用のトンネル「グリニッジ・フット・トンネル」(Greenwich foot tunnel) がある。トンネルの北側の出口はアイランド・ガーデンズ (Island Gardens) にあり、そこからはカナレットが描いたグリニッジ病院の有名な眺めを望むことが出来る。病院の北西の角の前の川沿いに、北極探検者のジョゼフ・ルネ・ベロー (Joseph René Bellot) を記念するオベリスクが立っている。
- ミレニアム・ドームは、グリニッジ半島のブリティッシュ・ガスの使われなくなった敷地に建てられた。これは地下鉄のノース・グリニッジ駅に隣接し、グリニッジ中心街からはおよそ5kmのところにある。ドームの南には、都市の再開発地区であるグリニッジ・ミレニアム・ヴィレッジ (Greenwich Millennium Village) が存在する。都市中心部の西側に建っているのがセント・アルフィージ教会 (St Alfege's Church) である。この教会が建っている場所は、1012年にカンタベリー大主教アルフィージが殺害された場所であり、現在の教会は1714年に建築家ニコラス・ホークスムーア (Nicholas Hawksmoor) が手がけたものである。都市中心部では、週末にはグリニッジ市場 (Greenwich Market) が多くの観光客で賑わう。

Stonehenge
- ロンドンから西に約200kmのイギリス南部・ソールズベリーから北西に13km程に位置する環状列石(ストーンサークル)のこと。現在のイギリス人、アングロ・サクソン人がブリテン島に移住した時にはすでに存在していた。
- 円陣状に並んだ直立巨石とそれを囲む土塁からなり、世界で最も有名な先史時代の遺跡である。考古学者はこの直立巨石が紀元前2500年から紀元前2000年の間に立てられたと考えている。しかしそれを囲む土塁と堀は紀元前3100年頃まで遡るという。 馬蹄形に配置された高さ7mほどの巨大な門の形の組石(トリリトン)5組を中心に、直径約100mの円形に高さ4-5mの30個の立石(メンヒル)が配置されている。夏至の日に、ヒール・ストーンと呼ばれる高さ6mの玄武岩と、中心にある祭壇石を結ぶ直線上に太陽が昇ることから、設計者には天文学の高い知識があったのではないかと考えられている。また、当時としては高度な技術が使われており、倒れないよう安定させるため石と石の間には凹凸がある。
- この遺跡とその周辺は、1986年にユネスコの世界遺産に加えられた。また、登録古代モニュメントとして法的に保護されている。ストーンヘンジ自体は英国の国家遺産として保有・管理されている。周辺はナショナル・トラストが保有している。
- 初期の多くの歴史家の説明は、超自然的な言い伝えに影響されていた。魔術師マーリンが巨人を使役して作らせたとか、マーリンがアイルランドのキララウス山から魔法で運んできたなどという伝説もある。このほか、悪魔が作ったとするものもある。ハンチントンのヘンリーが、1130年頃この遺跡に最初に言及した。そのすぐ後に、モンマスのジョフリーが、アーサー王と関連付ける架空の記録を最初に記した。これにより、この遺跡は中世ヨーロッパのロマンスに取り込まれていくことになる。1615年、イニゴ・ジョーンズは、ストーンヘンジがカエルス(ギリシアの天王神ウラヌスのラテン語名)に捧げられたローマの神殿であり、トスカナ式建築で作られたと主張した。後世の注釈者は、デーン人がこれを建てたと言い続けた。実際、19世紀の末に至るまでは、この遺跡はサクソン人かその他の比較的新しい民族の手によるものだと広く思われていた。
- この遺跡を調査する最初の学術的試みは、1740年頃、ウィリアム・スタッカレーによって行われた。例によってスタッカレーはこの遺跡をドルイドの手によるものだと誤って結論付けた。しかし、彼はこの遺跡の測量図を残した最初の人物となった。この図があったために、形状と大きさについてのさらなる分析が可能になった。この業績により、彼は石の配置が天文学または暦学上の役割をもっていることを示すことができた。19世紀の転換期までに、ジョン・ラボックは、付近の古墳から発見された青銅器に基づき、この遺跡が青銅器時代のものであることを示した。

Durham Castle
- イギリス・ダラムにあるノルマン様式の城。1840年より全体がダラム大学学生寮となっている。城はダラム大聖堂と共にウェア川を見下ろす丘の上に立つ。
- 城の原型は、11世紀にイングランド王国北部においてノルマン朝の勢力を投影させるために建てられた。1066年のノルマン・コンクエストの分裂に従い、野蛮で移り気なままの北部イングランドの人口増加があったためである。城は、ノルマン人が好んだ初期モット・アンド・ベーリー型城の秀逸な例である。ダラム司教の聖務所としての城の所有は、アングロサクソン時代から封建的な領主司教であったダラム司教を味方につけて王家の権力を振るおうとした王によって、許可されたものだった。城はダラム司教座となった。
- 城は、ダラム司教がビショップ・オークランド(カウンティ・ダラムの町)に司教邸宅をつくるまで、ダラム司教の司教邸宅であった。城はダラム大学学生寮に転用された。城内には、14世紀初頭に司教アントニー・ベックがつくった広大な大広間(en:Great Hall)がある。15世紀終わりに司教リチャード・フォックス(のちヘンリー8世に重用され王璽尚書も務める)が縮小するまで、イギリス最大の大広間だった。しかし、今も高さ14メートル、長さ30メートルの広さである。
- 大学は城内の2つの礼拝堂を広範囲に渡り使用している。1つは1078年頃建てられたノルマン様式のノルマン礼拝堂、もう1つは1540年に建てられたタンストールズ礼拝堂(ヘンリー8世時代のダラム司教カスバート・タンストールにちなむ)である。 ノルマン礼拝堂は城の中で入れる部分としては最古の物である。現実にはアングロサクソン建築だが、礼拝堂を建てようとしてアングロサクソン人労働者が建設を強いられたためである。15世紀、礼拝堂内の3つの窓は、要塞部分拡張のため全てふさがれた。要塞部分から出入りする通廊として使われ出した1814年まで廃棄されたままだった。第二次世界大戦中、礼拝堂の元来の使用法を理解したうえで、礼拝堂はイギリス空軍の司令部と監視所として使われた。 戦後すぐに礼拝堂は聖化され、今も大学によって週課の場として使用されている。タンストールズ礼拝堂は、先のノルマン礼拝堂よりも大きいことから頻繁に使われている。コジン司教とクルー司教は17世紀後半に礼拝堂を拡張した。礼拝堂後方には、16世紀の数席ある特免室(教会内で飲食の許された場所)がある。これらは、長時間立ったままの人が、上方にカーブした席の出っ張り上で休むことができるよう設計されている。

Durham Cathedral
- イングランド北東部、ダラム州ダラム市にあるダラム大聖堂は1093年に創建され、今もなおキリスト教信仰の中心地としての地位を保っている。この大聖堂は、ノルマン様式の教会としてはヨーロッパで最も精巧な建築物の例とされており、ユネスコにより、そばに立つダラム城と共に世界遺産に登録されている。大聖堂とダラム城は、ウェア川を見下ろす崖の上に建てられており、パレス・グリーンと呼ばれる緑地を挟んで向かい合っている。
- ダラム大聖堂は、教会の建物とリンディスファーン島(現在のイングランド北東部にあたるノーザンブリアの沖にある島で、聖域とされた)の聖人リンデスファーンのカスバート(7世紀)の聖遺物を保有しており、一般公開されている。またセント・オズワルド・オブ・ノーザンブリア(オズワルド王)の頭部と、聖ベーダの遺体も安置されている。さらに、325段ある階段を上ると、高さ66メートルの塔の最上階にたどり着く。そこからはダラムの街と周辺地域の眺望を楽しむことができる。
- この地に伝わる伝説によると、このときの僧たちの放浪のさい、茶褐色(dun)の牝牛をさがしていた乳絞りの2人の少女に出会った。少女たちを先頭にして歩いていると、ウェア川が蛇行しているためそこに輪のような形に突き出した土地に、いつしか入っていた。このとき聖カスバートの棺をどうしても動かすことができなくなったので、「これは『新しい教会をこの地に建てるべし』という神のお告げである」と解釈されたのだという(注:茶褐色はダラム大聖堂とダラム城の建物の色、牝牛は豊かさの象徴(=ダラム主教座領の繁栄の隠喩)である。またダラム(Durham)の古名はダンホルム(Dunholme)であった)。この地が選ばれたことの現実に即した理由としては、一つは防御に大変適した地形であったこと、そして当時の司教アルドゥーンが代々のノーザンバーランド伯と強い姻戚関係を結んでいたことから、ここに共同体を作れば伯爵の庇護を受けられる、との思惑もあったものと思われる。

City of Bath
- バースは、ロンドンの西140kmにあり、行政区分としては、単一自治体のバース・アンド・ノース・イースト・サマセットの地区となる。人口は9万人程度。紀元前からの温泉場として有名。一説には、ケルト人が発見したと言われている。その地名が、英語のbath(風呂)の語源となったというのは俗説で、正しくは風呂を意味するゲルマン古語からその名がつけられた。1世紀頃、ローマ帝国の支配下で、保養地として繁栄。ローマ式の大浴場や神殿が建築された。ローマが撤退すると一時的に荒廃した。18世紀に再発見される。ジョージ3世の頃、ジョージアン形式と呼ばれる当時のテラスハウスの建つ町並みへと変貌した。上流階級の保養地にもなった。

Blenheim Palace
- マールバラ公ジョン・チャーチルが、スペイン継承戦争中のブランハイム(ブレナム)の戦いで立てた戦功によって当時のアン女王から贈られた大邸宅。バロック様式で、建築家ジョン・ヴァンブラの設計による。彼の子孫で、第二次世界大戦中の首相であったウィンストン・チャーチルの生家でもある。1987年に世界遺産に登録されている。

Liverpool
- イングランドの港町リヴァプールの街区を対象とするユネスコの世界遺産リスト登録物件である。この物件は、ピア・ヘッド(Pier Head)、アルバート・ドック(Albert Dock)、ウィリアム・ブラウン・ストリート(William Brown Street)をはじめ、多くのランドマークが含まれるリヴァプール中心市街の6つの区画を対象としている。
- ピア・ヘッド
- ピア・ヘッド(the Pier Head)は、「スリー・グレイシズ」(Three Graces, 美を司る3女神)と呼ばれるロイヤル・リヴァー・ビルディング(Liver Building)、ドック・ビルディング(Port of Liverpool Building)、キューナード・ビルディング(Cunard Building)が存在している場所である。この地域はリヴァプールの水辺の中心的位置にあり、19世紀から20世紀にかけての港の繁栄ぶりを伝えるものとなっている。この地域にウィル・オールソップ(Will Alsop)設計の「第4の女神」ザ・クラウド(the Cloud)を付け加える計画もあったが、2004年に見送りが決定した。その代わりに、新しいリヴァプール博物館(Museum of Liverpool)の建設が進められており、2010年か2011年に開館する予定である。
- アルバート・ドック
- アルバート・ドックはピア・ヘッドの南に位置し、美術館テート・リバプール、マージーサイド海洋博物館(Merseyside Maritime Museum)、ビートルズ・ストーリー(The Beatles Story)などの観光名所が存在している。ジェシー・ハートリー(Jesse Hartley)によって設計され1846年に開かれたアルバート・ドックの倉庫は、木材を用いず鉄、レンガ、石だけを使った世界初の完全耐火倉庫である。今日、ドックの建造物群や倉庫群は、イギリスの保護対象建造物群(listed buildings)でグレード1に分類されているものでは、最大級のものである。
- スタンリー・ドック保存地域
- スタンリー・ドック保存地域(The Stanley Dock Conservation area)は、ピア・ヘッドの北に位置し、リヴァプールのドックの心臓部を包含している。この地域には、数多くの乾湿両方のドック、橋梁、倉庫などが残されており、特に倉庫には世界最大級のレンガ建造物であるスタンリー・ドック・タバコ倉庫(Stanley Dock Tobacco Warehouse)が含まれている。
- キャッスル・ストリート保存地域
- 「商業街区」キャッスル・ストリート保存地域(The 'Commercial Quarter'/Castle Street Conservation Area)の対象になっているのは、中世のリヴァプールの姿を伝えるものであり、キャッスル・ストリート(Castle Street)、オールド・ホール・ストリート(Old Hall Street)、ヴィクトリア・ストリート(Victoria Street)、ウォーター・ストリート(Water Street)、デイル・ストリート(Dale Street)などが含まれている。
- ウィリアム・ブラウン・ストリート保存地域
- 「文化街区」ウィリアム・ブラウン・ストリート保存地域(The 'Cultural Quarter'/ William Brown Street Conservation Area)は、リヴァプールの市営建造物群(civic buildings)の集まる地域である。世界遺産登録対象になっている特に有名な建物としては、セント・ジョージ・ホール(St Georges Hall)、ライム・ストリート駅(Lime Street Station)、ウォーカー・アート・ギャラリー、ワールド・ミュージアム(World Museum Liverpool)、旧グレート・ノースウェスタン・ホテル(the former Great North Western Hotel)、クイーンズウェイ・トンネル入り口(the entrance of the Queensway Tunnel)などである。
- ロープウォークス
- ロープウォークス(The Ropewalks, 縄作り場)は、カレッジ通り(College Lane)の2つの倉庫やスクール通り(School lane)のブルーコート・チェンバーズ(Bluecoat Chambers)などとともに、デューク・ストリート保存地域(Duke Street Conservation Area)の南西部を構成している。この区画は、リヴァプールが新興の港町であった時分から存在していたものである。また、1715年に建てられたブルーコート・チェンバーズは、リヴァプール中心部に現存する建造物としては最古のものである。その界隈が世界最初のenclosed wet dockであるオールド・ドック(Old Dock)に近いことは、デューク・ストリート、ハノーヴァー・ストリート、ボールド・ストリート沿いに倉庫や住宅を建てていった初期の不動産投機業者たちの用地であったことを意味している。

Frontiers of the Roman Empire
- ユネスコの世界遺産登録物件名である。ローマ帝国の繁栄と衰退を残す文化的景観が評価されて、1987年にイギリスのハドリアヌスの長城が単独で登録された。その後、2005年にドイツのリーメスを拡大登録した際に現在の名称となり、2008年にはイギリスのアントニヌスの長城も含まれることが決定した。
- ハドリアヌスの長城
- ハドリアヌスの長城は、イングランド北部のスコットランドとの境界線近くにある長城で、1世紀後半に版図にブリタンニアを組み込んだローマ帝国がケルト人のうち、ローマに服従していないピクト人など北方諸部族の進入を防ぐために築いた。皇帝ハドリアヌスが長城の建設を命じ、122年に工事が開始される。
- リーメス
- リーメスまたはリメス(Limes)は,ドイツのライン川とドナウ川の間に残るローマ帝国時代の長城跡。リーメスの建設は、紀元前2世紀頃から始まり、目的としては、ゲルマン民族の侵入からライン川・マイン川流域の肥沃な土地と通商路を守るためであった。リーメスの遺構は、主に長城と物見櫓、砦に分けられる。長城の総延長は約550kmで、東はドナウ川から西はライン川まで達する。長城は大きく分けて、北部ドイツ(Upper-German、約330km)とラエチア(Raetian、約220km)の2つの部分に分けられる。北部ドイツ部分は、ライン川とライン川の支流であるマイン川に沿って、土塁による長城と堀が設けられていた。堀は約8mの幅と約2.5mの深さを持っていた。また北部ドイツ部分には長城にそって約40の砦が築かれていた。ラエチア部分は、うち約167kmは高さ約3m、幅1.2mの石塁で築かれた。石塁は、付近から産出する石を使用していた。物見櫓は長城の塁に沿って、およそ300mから800mの間隔で建てられた。現在、896箇所が確認され、うち260箇所は現在でも構造の一部が残る。櫓の構造は、土台が4mから8mほどの大きさの正方形をしており、その上に見晴台が築かれたと推定されている。長城に沿って、大型のものは約60以上の砦跡が確認されている。大型の砦には1つあたり約100から1000人程度の守備隊が配置され、長城の警備および長城を通過する人々を管理する関所の役割を果たしたと考えられている。また20から30人の配置規模の偵察や監視を目的とした小さな砦も多数存在していた。リーメスの砦の中で調査が行われているものの1つのザールブルク砦(Saalburg fort)は、北部ドイツの部分に属し、砦の初期は紀元前90年頃の建築と推定され、長方形の形をしており、面積は約0.7haであった。ザールブルク砦の発掘調査は、19世紀後半から始まった。1897年にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が、このザールブルク砦の再建を命じ、第一次世界大戦前に完成した。現在ではこの時に復元されたザールブルク砦が博物館として使用されている。

Tower of London
- イギリスの首都のロンドンを流れるテムズ川の岸辺、イースト・エンドに築かれた中世の城塞である。正式には「女王陛下の宮殿にして要塞」(Her Majesty's Royal Palace and Fortress)と呼ばれるように、現在も儀礼的な武器などの保管庫、礼拝所などとして使用されている。その景観から「ホワイト・タワー」とも呼ばれる。世界最大級のカット・ダイヤモンド「カリナン」はここで保管されている。
- 1066年にイングランドを征服したウィリアム1世が1078年にロンドンを外敵から守るために堅固な要塞の建設を命じ、本体は約20年で完成した。その後、リチャード1世が城壁の周囲の濠の建設を始め、ヘンリー3世が完成した。長い歴史の間に国王が居住する宮殿として1625年まで使われ、その間、14~19世紀にかけては、造幣所、天文台でもあり、1640年までは銀行、13世紀から1834年までは、王立動物園でもあった。なお、ロンドン塔に最後に居住した王はジェームズ1世とされる。また、身分の高い政治犯を幽閉、処刑する監獄としても使用されたはじめたのは1282年のことで、やがて14世紀以降は、政敵や反逆者を処刑する処刑場となった。現在もイギリス王室が使用している宮殿であるが、ロンドン観光の目玉になるほど観光客も多く、内部にある建物の幾つかは、世界最大のダイヤモンド「偉大なアフリカの星」など様々な歴史的展示物を陳列して、見学できるようになっている。1988年にはユネスコ世界文化遺産にも登録されている。すぐ近くには、世界的にも有名な跳ね橋であるタワーブリッジがある。

